Romancing Note

あと何回桜見られるか。

遊びはルール

いきなりこんなことを言うと「お前は将棋を愛していない」とか言われそうな気がしますが、私の将棋観やプロ観は升田幸三氏のそれ(お考え)に近いです。

私が勝手に名作と思っている『月下の棋士』という将棋マンガにも、升田氏がモデルと思われるキャラクターが出てきますが、「魅せて勝つ!プロはこれじゃ!」というセリフがあります。
受けて立つ大山氏がモデルと思われるキャラクターに「あんたの理想は聞きあきたわ」と言われるんですけどね。

というのは、「将棋指しなんて、無くてもいい職業の1つだと思っとる」というのが根底にあるようです。

野球で言えば長嶋茂雄氏も「魅せる野球」の体現者なんでしょうか。

「アマチュアというのは愛好家という意味」というのは以前にも書きましたが、本来は他で衣食住を得て、余裕があったら趣味で(好きで)指すというのがアマチュアですよね。

私も、何も実力がプロ級じゃなくたって、音楽で言えばカラオケ、野球で言えば草野球やバッティングセンターやコンピューターゲームなどもあるワケで、観戦だけでなくとも、楽しみ方はあります。

確かに、将棋自体も無ければ無いで困りもしないですが、「今から野球ヤるからメシ持ってきて」とか「今から将棋指すからクルマちょうだい」とか言われたら「はぁ?」となりますよね。
「家建てるからメシ持ってきて」みたいなのは当然あると思いますがね、「俺はお前のお母さんじゃねぇんだよ!」みたいなね(笑)。

ただ、フォローの意味も込めて言いますと、日本の全国放送で視聴率1%って100万人なんですけど、厳密には1億人の1%が100万人で、大衆演劇風に1人1円でも投げ銭(おひねり)したとしたら、最低でも100万円の価値はあるワケなんです。
それが視聴率10%で1人10円投げ銭したら、1億円の価値になりますよね。

なので、そういう人達がある程度高給取りでも、私は「当然の労働対価かな」くらいに思っているので、妬みみたいなのも無いワケです。

そもそもアートもスポーツもゲームも大きなくくりで言えば「遊び」ですよね。

鬼ごっこやドロケイや缶蹴りやかくれんぼなどにもルールはありますよね。

つまり、遊びはルールがあってこそだと思うんです。

将棋も「取った駒を打っちゃダメ」になったら全然違うゲームになりますし、サッカーも「手を使っていいけど前に投げちゃダメ」というルールになったら、必然的にフォーメーションもラグビーみたいになりますよね。

それに、そういう「遊び」をヤっていると、当然足の遅い子やルールを破ろうとするズルっ子も出てくるワケです。
だから、勝手にエリート意識を持つのは構いませんが、子供の頃から「そんな奴等と遊ぶな」みたいになると、世間知らずで思いやりの無いクソ野郎になってしまうと思うんですよね。

推し量って頂きたいのですが…とかくクラシカルミュージックを追求している人は、他の音楽を見下すような感覚にもなる人もいるのではないかと思いますが、私は「本当の音楽好きってのはポップミュージックも聴くんだよ」とも思ってますよ。

とにかく、「かけっこで勝てないなら頭を使うジャンルで勝とう」じゃないですけど、そういう「遊び」を通して社会性が育まれていくんだと考えますが、いかがでしょう。

習い事をヤって挫折も知っている人は、そういうことも実感なさっているのではないでしょうかね。

相変わらず何が本題か判らなくなった感じですが、こういうことは名人まで登り詰めた人が言うから説得力があるのであって、一旦道から外れてしまった私が言っても耳に入らないですか?(笑)

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時は金なり

永世名人の谷川浩司先生は、「棋士には勝負師タイプと研究者タイプと芸術家タイプがある」と言っていて、私はどれに当てはまるんでしょうかね。

同じく田中寅彦先生の著書を若い時に読みまして、「なるほど」と思ったことを書き残しておこうと思います。

「不動産にのめり込んで、転居を繰り返し、山手線内に一軒家を持つことに成功した」と。

私は「またこういうことヤってもアレなんだろうな」とか思いながら、エコノミストの人も株の取引の話で、「こういう人達がヤり始めたら終わり」と(笑)。

何が言いたいかといえば、要は「これの何が大きいかと言うと、通勤時間が片道1時間だったのが、片道30分に減って、つまり、往復で1時間、週5日だと5時間得したことになるのである」みたいなことらしいんですけど、「将棋に費やせる時間が週に5時間増える」という主張でした。

5時間というのは、映画や演劇やライブだと2本分、音楽CDだと実に5枚分です。
週にこれだけインプットが行われるだけで、人生がかなり変わってくると思います。

私の場合は通勤時間が0なので、通勤時間が片道1時間の人と比べると、週10時間得していることになります。
私はその時間を、1時間半から2時間のBSの平日の討論ニュースを観たりして使っていますが、政財界や学会のお偉方と顔を合わせる機会に恵まれるのは、これはこれでかなり貴重な体験なんです。
お偉方と言っても、私は足向けて寝っ転がって話を伺ってますがね(苦笑)。

「ミュージシャンって一般の方より自由に使える時間って多いんですけど、僕は本を読んでますね」と言っていたミュージシャンもいました。

もちろん、そうなるには若い頃にそれなりの努力を重ねることは重要かと思います。

コロナ禍で「テレワーク」あるいは「リモートワーク」という言葉が生まれましたが、もちろん動かなくなって太ったりとか外出できなくてイライラしたりだとかの問題もあります。

私は学生時代に通学時間が電車で片道3時間みたいな愚かなことをしていたので、それが身に沁みて判りますが、私が通っていた大学は、1年間の半分と言っていいくらいが休みだったので、その間にゲームや音楽に没頭していたワケです。
本当は学生もそれなりに勉強したり資格を取ったりバイトしたりと、そういうための休みでもあるとは思うのですが、幸いウチはその辺りは寛容な教育方針だったので(苦笑)。

クルマの免許を取ったのも大学卒業後で、将棋を本格的に始めたのもそうです。
哲学書を読み始めたのもそうですよ。
まあ、最初から「そういう生活してても大丈夫」と言われていたら、精神的不調にならずとも済んだとは思いますがね。

「天才には本当の意味での閑暇が無ければならない」というような言葉も覚えていますよ。

もっとも、クルマならともかく、毎日の通勤通学が私にとっては身体的な面でも適さないので、自宅でインターネットを使って活動できれば、それに越したことはありません。

通勤電車で新聞読んだりするオジサンもいますかね、しかし、通勤時間が週5時間浮くとすると、月で考えると四捨五入で1日分、年で考えると12日分得しますので、12日分浮いたら長めの旅行も出来ると考えると…。

これも「言うは易し行うは難し」であり、現場に赴かなければならないエッセンシャルワーカーのような職業の方もいらっしゃいますが、是非参考にされたく思います。

最後に、エンタメ業界に身を置く人のタイプを3つに分類してみようと思います。

・ただの目立ちたがり(金目当て異性目当て含む)
・生粋のエンターテイナー
・芸術家肌

エンターテイナーは目立ちたがりに「客を楽しませるよりも、承認欲求で自分が喝采をもらいたくてヤってる、だから平気で『客が悪い』みたいなことを言えるんだ」という批判が、芸術家はエンターテイナーに「自分の感情や主張を通さないで客に媚びるのは商業主義だ」という批判が、目立ちたがりは芸術家に「実際、生き馬の目を抜く世界で、業界内で生き残れなかったら元も子も無い」という批判が成り立ち、これも三すくみのじゃんけんとなりますね。

まあ私も業界に身を置いているワケでもないのでね、そのどれでもない感じで、私のヤり方がこれからの時代のロールモデルになるかどうか、という所ですな。
ただ、「オーディションやスカウトなどのプロとして認められる通過儀礼も無く、業界を敵に回す」というのと「有名になる順番が逆」という批判が成り立つのは事実で、その辺りのルール無視的な手法が微妙であることも付け加えておきます。

では、私の場合は逆に管理してくれてる面もあるとは思いますし、テレビや映画に出るような絶世の美女とも無条件で関係が持てるので、その点に関しては素直に感謝の意を述べて、今回は筆を置くことに致します。

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ドラキュラZERO

「ドラキュラZERO」というホラー系時代劇の映画を観て、私がこういうのが好きなのも周知の通りですか。

「ドラキュラ」は吸血鬼界で一番有名な、ルーマニアのトランシルバニア地方の領主だった「ヴラド・ツェペシュ」という実在の人物がモデルです。
国と民と家族を守る話ではありますよ。

そも「吸血鬼」というのは、民間伝承で東欧に多いそうで、キーワードは「スラブ系」と「東方正教会」と「美少女」でしょうか。

「東欧は美人の産地」という言葉を聞いたことがありますが、あの辺りは血が混ざりまくってて、「混血」とは言うものの、人間の場合は必ずしも悪い方に出るかは判りませんよね(苦笑)。

「流浪の民」であるジプシーというのは、「エジプシャン(エジプト人)」という意味で、ジプシーにも吸血鬼伝承があるそうで、彼らは「ロマ」と自称したりするんでしょうか、地域社会との軋轢から彼らへの差別もヨーロッパでは社会問題になっているそうです。
ルソーの「エジプトよりさらに南にはアフリカと西インドが考えられようが」というのは、そういう意味合いもあるんでしょうか。

吸血鬼関連の小説や寓話は、ゴリゴリの文学から大衆雑誌の連載まで、数多く存在するようです。

基本的に、処女の生き血を啜ったり体に塗りつけたりして、不老不死や若返りを狙うのが主な説なんでしょうか。

「死者が甦る」というようなのは、カトリックでは認めていなかったため、ウクライナから北の方からバルカン半島に移動してきたスラブ人の間で恐れられていた"迷信"と言ってよいのかどうか。
そのためか、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われていました。

オーストリアとハンガリーにはスラブ人は少ないそうで、ドラキュラの語源の「ドラクル」は、ハンガリーの王室が作った「ドラゴン騎士団」という名誉職から来ていて、ドラキュラの本義は「竜の息子」という意味だそうです。

「フィン人というのはハンガリーのナンチャラ」というのもカントの著作で読みました。

映画の主人公である「ヴラド・ツェペシュ」の「ツェペシュ」は、「串刺し公」の意味で、罪人や反逆者や侵略者などを串刺しにして地面に突き立てる刑罰を行っていたことに由来しています。

当時はオスマン帝国が強くて、そのヴラド3世は幼少期にオスマン・トルコに兵(つわもの)になるように狩り出されてかなり厳しく育てられました。
帰国してワラキア領主となり、同じように領内の子供を1000人兵士となるように要求されて、自分の嫡男もその中に入っていたことから、暗い洞窟に巣くうオルロック(?)に協力を乞うて、半ば悪魔に魂を売り渡す形で、3日間限定でヴァンパイアになります。

その時に「ここに入ってくる者は恐怖ばかりだが、お前には希望がある」みたいに言われるんですが、他にも気になる展開や台詞も多々ありました。

途中で、ヴァンパイアになる期間を延ばすために右手から血を流して杯(さかずき)に受けて血を差し出す人物が現れるんですが、つまり聖杯ということで、キリストということなんでしょうか?
「お前ふざけるなよ?」と言ってそれを拒否するんですけど、キリスト教の「アーメン」というのは、「それな」というような意味だと聞きました。

やはり弱点は十字架や銀や日光(サンシャイン)なんですけど、駆け込み寺でもある修道院でも「祈っているだけではダメだ、立ち上がるんだ」と言っていました。
「俺がいるからこの国は成り立ってるんだぞ!」みたいなことも言っていましたが、「それは言っちゃダメ」という感じですかね、奥さんも「こんなのあなたじゃない」と(苦笑)。

ちなみにキリストの復活祭は英語でイースター(East-er)と言いますよね。

ヴァンパイアは心臓に杭を打って地面に縛り付けて滅するんですが、「ステークホルダー」という言葉もありますよね。
日本では「出る杭は打たれる」という言葉がありますが(笑)。

他にも、文学作品では『カーミラ』のような女性のレズビアンのヴァンパイアなどもいて、私が生まれた1979年の『夜明けのヴァンパイア』という小説では、レスタト・ド・リオンクールという名前で、ロック音楽に共鳴して、「ヴァンパイア・レスタト」というロックバンドを結成して大成功を収めるヴァンパイアが主人公だそうです。
本当にそうなった?

ウェブサイトに曲を上げている「悪魔城ドラキュラ」は、その逆のヴァンパイアハンターが主人公で、ドラキュラを倒すゲームですよ。
海外では「Castlevania」という名前で販売されて好評を得ているそうです。

「この時代では『この国に攻め込んだらヤバい』と恐れられることが重要」みたいに言っていましたが、少しでも「なるほど」と思ってしまった自分がいて、しかしもうそんな時代でもないのも事実なので、悪しからず。

「この映画が面白かった」という話ですよ。

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プロレスを語る

「良くも悪くも90年代のプロレスはこいつとともにあった」

私が幼少期に没頭していたプロレスについて語ろうと思います。

高校の時に柔道部に所属して、同期に「プロレスが好きで入部したクチ?」とか聞かれて、確かにそういうのもありました。
先輩にも「今日全女が武道館だけど、行く?」とか誘われたこともありますよ。
太宰治も「森鴎外も柔道をヤっていて、ケンカになった時に相手を組み伏せたというではないか」みたいなことを書き残しています。
今思えば「素直に野球部に入っておけばよかったかな」というのはあるんですけど、初段(黒帯)にはなれたので、「趙雲の悪い所はドカベン」って感じですかね。
横山光輝三国志の趙雲と、「気は優しくて力持ち」のドカベンの山田太郎(元柔道部の捕手)が似ているって話ですよ。

実は最近は全然観ていなくて、たまに長州さんとか武藤さんとか蝶野さんとかがテレビに出てるのを見て、「可愛いおじいちゃんになりましたね」とか「夭逝された方もいるが、お元気そうで何より」とか思いながら。

日本のプロレス史の大まかな流れを書くと、まず、力道山が日本プロレスを立ち上げて、空手チョップで一世を風靡したんですかね。
力道山先生は相撲の人なんですけどね(苦笑)。

そこに入団した、プロ野球の巨人軍出身のジャイアント馬場と日系ブラジル人系のアントニオ猪木が「BI砲」といって人気を博しましたが、ジャイアント馬場がコブラツイストという技を自分の物にして、猪木さんが「これでは俺が埋もれてダメになる」みたいに言って卍固めを発明して、現テレビ朝日と放映契約を結んで新日本プロレスリングを設立、その後にジャイアント馬場が全日本プロレスを日本テレビと放映契約を結んで後追いで設立し、日本プロレスが終焉するんでしたっけ?

つまり、現存する最古の団体は新日本プロレスリングということです。

新日本プロレスは、「ストロングスタイル」を標榜して、モハメド・アリとの死闘が有名ですが、異種格闘技戦などをヤって、その流れでUWFという「ガチを売りにしたプロレス」に分化して、それが総合格闘技ブームに繋がります。

新日本は「覇道」と言われ、全日本は「王道」と言われます。

全日本にいた大仁田厚という男が、自ら「邪道」と言いながらFMWを設立して、これは「ノーロープ有刺鉄線電流爆破」みたいなデスマッチ路線なんですけど、特に長州力さんと相性が悪くて、長州さんとかその弟子の国会議員の馳浩さんはアマチュアレスリングのオリンピック代表だったりしたんですか?

大仁田さんは最初『キン肉マン』の世界観を再現しようとしたみたいですけど。

善玉のことを「ベビーフェイス」、悪玉のことを「ヒール」と言います。

UWFは「U系」と言われて、チョップとかスープレックス(投げ技)ではなく、キックとかサブミッション(極め技、つまり関節技)が中心のプロレスです。

UWFは、藤原組長(ハンマースルーつまりロープに振られるのを拒否していた)や前田日明や高田延彦や初代タイガーマスクが、「プロレスは八百長だ!」と言い放って立ち上げた団体です。
今挙げた4人がそれぞれの団体に分化して、特にUWFインターは、10.9東京ドームで新日本との対抗戦で、「プロレスらしい技」である四の字固めで武藤敬司に負けたりして、その残党を集めてPRIDEという総合格闘技イベントが勃興、その流れで総合格闘技ブームに繋がるワケです。

真剣勝負のことを「ガチンコ」とか「セメント」とか言うんですけど、団体内には「道場破り対策要員」みたいな本当に強いヤツが1人はいるという都市伝説みたいなものがありました。

格闘技界隈では、「張り手や頭突きで耐性があって、股割も出来て柔らかく、何よりあの体型だと何をヤっても効かない」という「相撲最強説」というのがまことしやかにささやかれていたんですけど、結局ボブ・サップみたいなアメフト出身の大男が出てきて、「単純に殴り合って強いだけなら格闘技の技術なんて関係無いんだ」みたいになって、プロレス・格闘技ファンは興醒めみたいになりかけた時期もありました。
私は週刊プロレスの編集長のターザン山本という人の『プロレスファンよ感情武装せよ!』という本を買って、今も棚にしまってあります。

よく考えたら、プロレスはヘビー級とジュニア級の2階級制ですが、柔道やレスリングやボクシングはもっと細かく階級が別れてますし、相撲は無差別級なんですよね。

スーパーストロングマシンの平田さんが「しょっぱい試合ですいません!」と言っていたのを部活仲間で真似してたんですが、「しょっぱい」というのは、相撲の隠語から来てるんですか、「不甲斐ない」みたいな感じの意味ですかね。

日本のプロレス雑誌は、週刊プロレスと週刊ゴングというのがあって、私は週プロ派だったんですけど、「マッハ、ビューティー、クラッシュ、対抗戦と、4回も当ててる」とかいう全日本女子プロレスや、そのFMWなどのインディー系を新日本や全日本のメジャー団体と同列に扱っていたら、新日本が週プロを取材拒否にしてしまって、私はそれ以降自然消滅的に離れてしまいました…(苦笑)。

アメリカンプロレスはもっとショーに特化していて、WWE(World Wrestling Entertainment)はWWF(Federation)から改名する時に「シナリオがある」と公言して、「Don't try this」と言いながら、PPV(ペイパービュー)方式で、テレビ視聴を主体にした経営方針なんでしょうか。

WWEは、選手を「スーパースター」と言い、クリス・ベノワは「ワイルドペガサス」という名前で獣神サンダーライガーとかと新日本でちゃんこ番をヤったりして同じ釜の飯を食って、メキシコからの不法移民キャラのエディー・ゲレロも同様で、メタラーのクリス・ジェリコもライオンハートという名前で天龍源一郎が中心のWARという団体に来ていたり、ハリウッドスタープレスのロブ・ヴァン・ダムも全日本に来ていました。
武藤敬司もチャンピオン時代にストーン・コールドスティーブ・オースチンに後楽園ホールでのタイトル戦で勝ったのをテレビで観ました。
実は、ギロチンドロップのハルク・ホーガンも、猪木さんと初代IWGP決定戦で、アックスボンバーで猪木さんが舌出して失神して、その後アメリカに逆輸入の形になったんですかね。

ロックバンドでは、クイーンやボン・ジョヴィのように日本で火が着いて世界的になったケースもありますか。

アメリカのメジャー団体でメインイベントを張った日本人は、ジャイアント馬場とキラー・カーンとグレート・ムタ(武藤敬司)の3人だと聞いたことがあります。
野球の野茂やイチローや大谷みたいに、実力だけで認められるみたいな世界ではない面もあるので、これはこれで凄いことだと思っているんですが。
ピープルズエルボーのロック様が映画俳優に転身したように、ハリウッド映画で日本人の俳優が主演をしたら、それもそれでスゴいことですよね、つまりそういうことに近いかと。

「実力だけ」と言うと語弊がありますが、中国の三国志の故事で「呉下阿蒙」というのがあって、これは、呉の呂蒙という武将が、若い時に武芸を追求していた所、「見込みがある」というので学問を勧められて、大人になって勉強するようになって、立派な武将になったという話です。

メキシコの「マスクをかぶって飛び技」であるルチャスタイルのウルティモ・ドラゴンという人が、「猪木さんはスゴいですよ!人生で3回ガチヤったんですよ!」と言ったらしいです。
他に笑ってしまったのが、将軍KYワカマツの「猪木を倒すには3分といらない、5分で十分だ」というヤツです。
あと、神取忍さんの「女子プロレス界最強の男」とか。

最後に、これもネット掲示板で見て吹いた投稿です。
「三沢さんを超えるビルダーっているの!?」

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ゼロサムゲーム

「ゼロサムゲーム」という言葉を聞いて、「サム」って「サムタイム時々(ガッツ石松風に)」の「some」で「0か寡数(few)かってことかな」とか、「thumb」で「親指」って意味で「0から1を産み出すことかな」とか、「それともTRFのSAMかな」とか色々考えていたんですが、どれもハズレでした(笑)。
正解は「zero sum」で、辞書を引いたら、「sum」は「合計」ということで、「大意」とか他にも意味がある多義語でした。

検索してみたら、「ゼロサムゲーム」というのは、例えば為替などで、どちらかのレートが上がっても他方のレートが下がるので、結局総和が0である、というような内容のことが書いてありました。
今は大抵のことはネットに答えがあるので、ご自分で調べられるのを期待します。

…というとここで話が終わってしまうので、今回は「ゼロイチ」つまり「0から1を産み出す」というのはどういうことかという話をしようと思います。

よく天才を表す言葉で、「1を知って10を知る」と言われたりしますが、私はどちらかと言えば「1を10に膨らませる」タイプかもしれません。
しかし、「何も無い所(0)から1を産み出す」というのもかなり難しく、実際は本義での天才は後者かもしれませんよ。

「例えば」ですけど、私の楽園の方のゲームのアイディアで説明します。

「0→1」というのは、「もし皆が寝てる時に同じ夢を見ていたらどうなるかなあ」という思いつきのようなことを言うのではないかと思います。

私はこの「とっかかり」というか、音楽で言えば「主題」とか「カッコいいリフ」とかですけど、これを考えるのが苦手な感じなので、「他人が考えたメロディ」とかでインスパイアされることが多いんです。
私が「スマッシュヒット」みたいなものは作れても量産が出来ないのはこの理由かと思います。

とにかく、その「皆が寝てる時に同じ夢を見ている」というのが浮かべば、後は「だとするとどういう出来事が起こりうるか」というのを想像して書き進めるワケです。

若い頃数学者を目指されていたビートたけしさんは、「映画を作る時はラストシーンを考えてから逆算する」という、言わば帰納法なんですかね。
その逆の「こうだからこうなってこうなって…」という考え方が演繹法ということでしょうか。
哲学で言えば、その両方をヤったのがカントだそうです。

「0」というので言えば、「ゆるキャラ」や「マイブーム」などで有名な、仏像マニアのみうらじゅんさんがテレビ講義で話していた内容で面白かったのが、「空あり」という不動産の看板を使って次のようなことを言っていたものです。

「仏教用語で『空』というのは『無い』ってことですよ。それが『ある』って言ってるんだから。『無が有る』ってどういうことだと」

無は無であって、「無が存在する」というのは矛盾した話ですよね。

「『自分探し』って、『最初から自分なんて無いんだ』と」として、「1回でも"崖っぷち"に行って突き抜けてるものを見てください、人生観変わりますよ」と言ってましたよ。

「天上天下唯我独尊」というのも、もし本当に宇宙に1人しか存在しなかったとしたら、果たしてそれは「存在する」と言えるのでしょうか?
「存在している」のは事実だとしても、その絶対的存在者が知性的生物であっても、本当に相対的に何も存在しなかったら、「知性」が生まれるのかとか、色々想像できる話でした。

以前「その考え方は数学にも応用されています」みたいな話も聞いていて、「0」という数字がそうなんですかね、他にも、虚数的な考え方で、「本当はマイナスなんてこの世に存在しない概念」とか。

「リンゴ3個を表せ」と言われたら、リンゴを3つ並べれば任務完了ですよね。
しかし、百歩譲って「リンゴ0個」は表せても、「リンゴ-3個を表せ」と言われたら困ってしまいますよね。

足し算と掛け算は出来ても、引き算と割り算って難しいですよね(苦笑)。

「何をかいわんや」ですけど、今回は「他ありて我あり」という結論的なことを書いて筆を置くことにしますか…。

ちなみに「サムズアップ」は親指を立てることですけど、「いいね」とか「グッドラック」みたいな意味ですよね。

以上、これも「考え方」の話でした!

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