釈迦に説法
クリスマスですな。
ウチも晩御飯にチキンが出ました。
今上天皇(平成天皇)の誕生日が12月23日で、日本はあくまでクリスマス休暇ではなく、天皇誕生日を祝うワケです。
皇室は神道で、判りやすく言えば神社で、寺は仏教なのですが、日本は近年キリスト教の慣習も入ってきて、新興宗教も乱立してカオスな状態です。
そもそも縁結びの神様とか芸能の神様とか学問の神様とか、多神教っていうか八百万(やおよろず)の神々がいる感じですかね、これが国民性でしょうか。
八百屋とか万屋とか言いますよね。
多様性を保って思想の違う人も尊重して共存するというのも重要かと思いますが、ショーペンハウアーは「寛容という思い上がった言葉を使わずに」と(笑)。
12月25日は、キリスト教の預言者であり神の子とされるイエス・キリストの誕生日で、同日に復活するという信仰があります。
イエスは、人間の罪を全て背負って十字架にかけられて死にました。
厳密にはイエスは神ではなく、キリスト教はヤハウェという神を信仰する一神教です。
キリストというのは救世主という意味だったと記憶しています。
新約聖書が信仰の対象で、一方ユダヤ教の旧約聖書も尊重しており、イスラム教はコーランを信仰していて、これらの教徒は「啓典の民」と言われています。
それぞれ相争っている向きも見て取れますが、イスラエルはユダヤ教の国で、金融に秀でているユダヤ人はご存じの通り苦難の歴史で、中東では実は様々な民族が混在しています。
「審判の日」や「怒りの日」といった終末思想と選民思想というのもキーワードになってくるでしょうか。
「隣人を愛しなさい」とか「財産を捨てなさい」と言ったイエスがユダヤ人だったかどうかについては諸説あるそうですが、またアインシュタインもドイツのユダヤ人なんでしたっけ。
パレスチナ問題に見て取れるように、聖地エルサレムを巡って確執があり、それはイデオロギーの対立なのか民族の対立なのか本質は判りませんが、アメリカは一貫してイスラエルを支持しています。
イエスはこうした状況を目の当たりにして、地上に一つの霊の国を打ち立てようとしたそうです。
哲学は乱暴に言うと英雄的テレパシー野郎の誕生を予言するソクラテス教みたいな感じがあって、私のウェブサイトにも書きましたが、ほとんど「エス」な人が歴史に残っています。
プラトニックの語源のプラトンはソクラテスの弟子で、ソフィストの一人とされたソクラテスは自ら書物を遺さず、プラトンが書物として遺し(私は読んではいませんが)、その弟子がアリストテレスだったかと記憶しています。
ちなみに、リビドーというのは意識下の性欲の事ですが、フロイトは「みんな全部『モテたい』とか性欲に突き動かされてやってる」と言っています。
哲学は形而上学とも言われ、早い話が「抽象」、つまり、形而下的な(具体的な)学問を普遍的な所に押し上げるという、「考え方」だと言えます。
処世哲学を思い浮かべる人もいるかも知れませんが、そういうのは人それぞれみたいな所があるので、普遍的な法則として通用する要素があるかは疑問です。
20世紀の著名な哲学者によれば、「哲学に残された唯一の任務は言語の分析である」という事ですが、これもなんとなくですよね。
ルソーは『社会契約論』で「市民の宗教について」という章で、第一の宗教をキリスト教として、これは「儀式も礼拝も必要としない人間の宗教である」と言い、第二の宗教をイスラム教として、これは「国に尽くすことがとりもなおさず神に尽くすことだとしている点でよい宗教である。しかし、信徒は常に周囲と戦っている戦闘状態に置かれるが、この事は彼ら自身の安全にも著しく有害な物である」と言い、「もっと奇妙な宗教」である第三の宗教をラマ教や日本の宗教やローマのキリスト教だとして、「二つの祖国、二つの故郷、二つの王を作って、これらはあまりにも明らかに悪い物だから、それを論証して喜ぶというのは時間の浪費というものだ」と言っています。
ラマ教というのはチベット仏教の事で、ダライラマ法王というのがいて、日本の宗教というのは、朝廷と幕府があって、つまり公家と武家、判りやすく言うと貴族と侍がいるという事で、ローマのキリスト教というのは、教皇つまりローマ法王と政治的な指導者でもある皇帝がいるという事でしょう。
これらが本当に悪いかは定かではありませんし、何を信じるかもそれぞれだと思います。
仏教は、輪廻転生とか、無益な殺生を禁忌としたりとか、俗世や煩悩や六道輪廻(りくどうりんね)などから解脱(げだつ)して悟りの境地である涅槃(ねはん)の状態を目指したりだとかというのが主な教義でしょうか。
決してなれない神様ではなくて、人間が悟って仏様になる(成仏)という事ですかね。
儒教は、「義を見てせざるは勇無きなり」という言葉が有名ですが、年功序列などに見られるように、判りやすく言えば礼儀作法の事でしょうか?
「子曰く」というのは、「孔子(孔先生)は言った」という意味で、ソクラテスやイエスのように、自分では書き残さなかったという事でしょうか。
その他、自然や精霊を信仰するアニミズム的な宗教も世界各地にあります。
科学と宗教はリンクしないかも知れませんが、実際の所、踏み絵じゃないですけど、経典やマリア像や十字架や仏像や位牌やお守りなどをぞんざいに扱えるかというのもありますし、それが宗教って事なのかも知れませんね。
お守りは万が一捨てる時は神社や寺に返してお焚き上げしてもらうのがいいですよ。
ウェブサイトでは書きませんでしたが、これはほとんど独り言で、宗教は道徳や慣習にまで入り込んでいるデリケートな物なので、「そうなんだ」くらいに思っていて下さい。
現代においては信仰心は薄れてきていますかね。
日本はそれでも治安が良い方だというのが謎ですな。
ルソーは「宗教はその狂信が流す血よりもはるかに多くの血を節約してくれるのである」と言っています。
「よし、ピラミッドを建てよう」っていう話になって、「古墳」とか。
『神様メール』という映画で「新・新約聖書」と言っていたのを見ましたが、はてさてテレパシーというオカルト的な魔法は後世にどう語られていくのでしょうか?
ウチも晩御飯にチキンが出ました。
今上天皇(平成天皇)の誕生日が12月23日で、日本はあくまでクリスマス休暇ではなく、天皇誕生日を祝うワケです。
皇室は神道で、判りやすく言えば神社で、寺は仏教なのですが、日本は近年キリスト教の慣習も入ってきて、新興宗教も乱立してカオスな状態です。
そもそも縁結びの神様とか芸能の神様とか学問の神様とか、多神教っていうか八百万(やおよろず)の神々がいる感じですかね、これが国民性でしょうか。
八百屋とか万屋とか言いますよね。
多様性を保って思想の違う人も尊重して共存するというのも重要かと思いますが、ショーペンハウアーは「寛容という思い上がった言葉を使わずに」と(笑)。
12月25日は、キリスト教の預言者であり神の子とされるイエス・キリストの誕生日で、同日に復活するという信仰があります。
イエスは、人間の罪を全て背負って十字架にかけられて死にました。
厳密にはイエスは神ではなく、キリスト教はヤハウェという神を信仰する一神教です。
キリストというのは救世主という意味だったと記憶しています。
新約聖書が信仰の対象で、一方ユダヤ教の旧約聖書も尊重しており、イスラム教はコーランを信仰していて、これらの教徒は「啓典の民」と言われています。
それぞれ相争っている向きも見て取れますが、イスラエルはユダヤ教の国で、金融に秀でているユダヤ人はご存じの通り苦難の歴史で、中東では実は様々な民族が混在しています。
「審判の日」や「怒りの日」といった終末思想と選民思想というのもキーワードになってくるでしょうか。
「隣人を愛しなさい」とか「財産を捨てなさい」と言ったイエスがユダヤ人だったかどうかについては諸説あるそうですが、またアインシュタインもドイツのユダヤ人なんでしたっけ。
パレスチナ問題に見て取れるように、聖地エルサレムを巡って確執があり、それはイデオロギーの対立なのか民族の対立なのか本質は判りませんが、アメリカは一貫してイスラエルを支持しています。
イエスはこうした状況を目の当たりにして、地上に一つの霊の国を打ち立てようとしたそうです。
哲学は乱暴に言うと英雄的テレパシー野郎の誕生を予言するソクラテス教みたいな感じがあって、私のウェブサイトにも書きましたが、ほとんど「エス」な人が歴史に残っています。
プラトニックの語源のプラトンはソクラテスの弟子で、ソフィストの一人とされたソクラテスは自ら書物を遺さず、プラトンが書物として遺し(私は読んではいませんが)、その弟子がアリストテレスだったかと記憶しています。
ちなみに、リビドーというのは意識下の性欲の事ですが、フロイトは「みんな全部『モテたい』とか性欲に突き動かされてやってる」と言っています。
哲学は形而上学とも言われ、早い話が「抽象」、つまり、形而下的な(具体的な)学問を普遍的な所に押し上げるという、「考え方」だと言えます。
処世哲学を思い浮かべる人もいるかも知れませんが、そういうのは人それぞれみたいな所があるので、普遍的な法則として通用する要素があるかは疑問です。
20世紀の著名な哲学者によれば、「哲学に残された唯一の任務は言語の分析である」という事ですが、これもなんとなくですよね。
ルソーは『社会契約論』で「市民の宗教について」という章で、第一の宗教をキリスト教として、これは「儀式も礼拝も必要としない人間の宗教である」と言い、第二の宗教をイスラム教として、これは「国に尽くすことがとりもなおさず神に尽くすことだとしている点でよい宗教である。しかし、信徒は常に周囲と戦っている戦闘状態に置かれるが、この事は彼ら自身の安全にも著しく有害な物である」と言い、「もっと奇妙な宗教」である第三の宗教をラマ教や日本の宗教やローマのキリスト教だとして、「二つの祖国、二つの故郷、二つの王を作って、これらはあまりにも明らかに悪い物だから、それを論証して喜ぶというのは時間の浪費というものだ」と言っています。
ラマ教というのはチベット仏教の事で、ダライラマ法王というのがいて、日本の宗教というのは、朝廷と幕府があって、つまり公家と武家、判りやすく言うと貴族と侍がいるという事で、ローマのキリスト教というのは、教皇つまりローマ法王と政治的な指導者でもある皇帝がいるという事でしょう。
これらが本当に悪いかは定かではありませんし、何を信じるかもそれぞれだと思います。
仏教は、輪廻転生とか、無益な殺生を禁忌としたりとか、俗世や煩悩や六道輪廻(りくどうりんね)などから解脱(げだつ)して悟りの境地である涅槃(ねはん)の状態を目指したりだとかというのが主な教義でしょうか。
決してなれない神様ではなくて、人間が悟って仏様になる(成仏)という事ですかね。
儒教は、「義を見てせざるは勇無きなり」という言葉が有名ですが、年功序列などに見られるように、判りやすく言えば礼儀作法の事でしょうか?
「子曰く」というのは、「孔子(孔先生)は言った」という意味で、ソクラテスやイエスのように、自分では書き残さなかったという事でしょうか。
その他、自然や精霊を信仰するアニミズム的な宗教も世界各地にあります。
科学と宗教はリンクしないかも知れませんが、実際の所、踏み絵じゃないですけど、経典やマリア像や十字架や仏像や位牌やお守りなどをぞんざいに扱えるかというのもありますし、それが宗教って事なのかも知れませんね。
お守りは万が一捨てる時は神社や寺に返してお焚き上げしてもらうのがいいですよ。
ウェブサイトでは書きませんでしたが、これはほとんど独り言で、宗教は道徳や慣習にまで入り込んでいるデリケートな物なので、「そうなんだ」くらいに思っていて下さい。
現代においては信仰心は薄れてきていますかね。
日本はそれでも治安が良い方だというのが謎ですな。
ルソーは「宗教はその狂信が流す血よりもはるかに多くの血を節約してくれるのである」と言っています。
「よし、ピラミッドを建てよう」っていう話になって、「古墳」とか。
『神様メール』という映画で「新・新約聖書」と言っていたのを見ましたが、はてさてテレパシーというオカルト的な魔法は後世にどう語られていくのでしょうか?