Romancing Note

あと何回桜見られるか。

下級生─あなただけをみつめて…

昨日、elfのアダルトゲームの『下級生』のOVA『下級生─あなただけをみつめて…』を観て、握手会で握手したアイドルの人風に「壁ドン…泣ける」と思って、少し書こうと思いました。
OVAは15禁となっています。

主人公は文武両道の優等生で学園のマドンナの結城瑞穂で、モテ男の長瀬トオルが私ということなんですかね、後藤みのるとの掛け合いで学校中を笑わせたりするんですけど、「実は登場人物の誰でもないんですけど」という場合もあるんですよね。

瑞穂の親友の天然娘の神山みこは「トオルさんは毎朝挨拶してくれて、トオルさんのことを考えると元気になれるんです」とか言いながら、実家は指切り神社の神主で、門限が5時なんです。

下の名前は忘れましたが佐竹という金持ちの御曹司が瑞穂を狙っていて、ゴジラみたいな怪獣映画に誘われて瑞穂の弟も着いてくるんですけど、小学生くらいの弟もトオルがお気に入りです。
空手家の佐竹さんは「怪獣王子」でしたっけね(苦笑)。

下級生の南里愛が親友の飯島美雪に促されてトオルに告白するんですけど、ガキ使の森三中が出てた小芝居の、村上さんの「ヤったじゃん大島!」みたいになってて、「実はロリコン」という喫茶店土下座のマスターは美雪が好きみたいです。
トオルはそこでバイトしてます。

トオルが「八方美人」というワケでもないんですけど、みんなとデートしてたりしたら瑞穂が「わからない」みたいに言って怒ってケンカして、佐竹に半ば騙されて彼の自宅に連れ込まれて襲われそうになったりもします。

頭がツンツンのペンギンってコウテイペンギンでしたっけ?
トオルがそのコウテイペンギンがヘッドホン着けてるキーホルダーを瑞穂に渡すんですけど、「社会民主党の福島瑞穂ってことかな」と思って、そういう暗喩もあるのかな、と。

瑞穂がみこにガールズバンドのコンサートのチケットを渡されて、行ってみたら隣の席がトオルだったという。
トオルも隣はみこだと思ったんですかね。
瑞穂が「さむい」と言っていたので、解釈は色々できますが。
その後「初夜を!初夜を!」(今田耕司風に)となりますが、みこの「瑞穂さんと一生親友でいたい」というのはそういう意味ですかね(苦笑)。

シナリオライターの蛭田昌人が「エロゲの世界で神と呼べるのは彼だけだと思います」とツイートされてましたが、確かに恋愛官能小説としても文学的だとも思いますね。

今日はバレンタインデーですけど、母に市販のチョコレートを渡されるくらいで、私は今までの人生において本命チョコはもらった記憶はありませんよ。
福島沖が震源の大きな地震が起こった翌日なので不謹慎かとも思いましたが、そういう日なので恋バナでもしようかと思ってブログを書いてみました。
私もイイトシですけどね(苦笑)。

深夜番組で浜ちゃんが、お嬢様の女医の西川史子先生にヒョウ柄の服を着せて「映画でも観てサ店で冷コーでもすればええやん」と言って、西川先生が「サテンでレーコー」と、初めて宇宙人を見たような言い方で返して、私は「ザギンでシースー?」と思いまして。
「ブルー」とか「さむい」とか「天然」とか、ダウンタウン辺りが言い始めたんですよね(苦笑)。

最近『同級生』のリメイクが出たんですかね。
「羽の無い天使」と言ってましたが、イタリアのメタルバンドも「Angel without wings, that's her destiny」と言ってました。
とにかく、その節は大変オセワになりました。

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新劇場版頭文字Dを語る

「コースマーシャルは配備済みか…」

味わい深いキャラクター、池谷の味わい深いセリフです。
言い方が面白かったからなんですけど、ナゼかはここでは言いません(苦笑)。

『頭文字D』は「イニシャルディー」と読みます。
意味はどこかで聞いたような記憶もありますが、忘れてしまいました。
実はアニメ放送時にも「ミゾ落とし」を見た記憶があるくらいで、アマゾンプライムで「頭文字Dあるかな」と思って検索したら、新劇場版が出てきたワケなんです。
コミックは1995年に連載開始して18年続いたらしいです。

話としては、群馬の走り屋達の話で、走り屋というのはクルマ好きでしょっちゅう峠狩りしてるような人達のことですかね、バイクだとツーリングと言いますよね。
秋名という、榛名を彷彿とさせる架空の町の豆腐屋のせがれである藤原拓海が、秋名湖畔のホテルに配達している間に知らずのうちに身に付けたドライビングテクニックで、次々と名だたる走り屋とバトルを繰り広げて、その名を轟かせる感じの話なんですかね。
拓海はなんとなく生きてるようなヤツなんですけどね、怒ると手がつけられない感じです。
所属する「秋名SPEED STARS」は、「一応クルマ産業」のガソリンスタンドでバイトしてる連中が中心ですけど、拓海と池谷と樹は愛すべきキャラクターですな。
機会があったらコミックも全巻揃えて読んでみたいです。

「Legend1覚醒」は、マツダのロータリーエンジンを搭載したRX-7の旧型のFCサバンナに乗る兄の高橋涼介と新型のFDアンフィニに乗る弟の高橋啓介の「ロータリー兄弟」に目をつけられて、弟の啓介と拓海がバトルするんですけど、この人達は病院を経営している富裕層の息子で、「どっちかっていうとソッチ側か」とか言いながら、「涼介のモデルが俺なのかな」と。

「Legend2闘走」は、涼介の「赤城RED SUNS」とはまた別の、「妙義NIGHT KIDS」の日産GT-Rやホンダシビックと荒っぽいバトルを繰り広げます。

「Legend3夢現」は、ついに涼介とのバトルです。

拓海の父親の藤原文太の「大人」が運転している時はジャズっぽいBGMなんですが、涼介が運転している時はバロック音楽っぽいBGMなんですよね(苦笑)。
菅原文太「トラック野郎」でしたっけ?

私も「その先が知りたい」ですが、涼介とのバトルでエンディングというのも何か意図がありそうですけどね、結末はご自分の目でとくとご覧あれ!

涼介は理論に精通していて、拓海と啓介の本能的な走りに一目置いていて、「お前の走りに俺の理論が加われば」と言って、拓海とのバトルでもデチューンしながら前を取らせてピッタリ着いていく作戦で、「俺が先に行っていたらこれ程の走りはできない」と。
ダウンチューニングと言えば、私の音楽もイングヴェイ・マルムスティーンとかアンドレ・アンダーセンとかの音楽に触れてから後追いしている感じなので、将棋や哲学も同様で、自分がパイオニア(先駆者)というワケでもないですよ。
実際、発展とか進化というのはこういうことなんだと思っています。

これも最近ですけど、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をパラパラッと読んでみたら、「命題pとqを同時に肯定する存在(p,q)を考察する命題(p∨q)」というのを見て、結局トートロジー、「存在するのは(p,q)つまり俺だけ」と言いたいのか、つまり「pでありqである」みたいな感じなんですかね。
(p,q)というのは、(仏陀,キリスト)とか(保守,リベラル)とか(居飛車,振り飛車)とかそういうことですかね、ジェスイット派なら、「女性pとqからrを産み出さなければならない」とも取れますが(苦笑)。
「ソクラテスは同一ではない」ともありましたが、(p∨q)は論理和で離接のことで、結局、私(p,q)を経て、私を考察する人達(p∨q)がまたpとqに別れないように、本来はrにならなければならないワケだなあハッカケ(丹波哲郎風に)。
分かりやすく言うと、新宗教とかポストモダンということでしょうか?

話が逸れました。

基本的にFR車でドリフトをキメる人達ですが、「闘走」では、4WDのGT-RやFFのシビックが相手なので、特に後者は「性格は最悪だが腕は確かだ」とか言いながら、ほとんどあおり運転みたいな感じで拓海もキレるんですけど、GT-Rは日本最速のクルマなんですかね、海外でも人気らしいんですよね。
主人公が乗っている86(ハチロク)はパワーは劣りますが、車両重量が、ハイパワーエンジンでボディー剛性を高めたGT-Rより500キロ軽く(2020年現在のデータで)、直線が短かったり、重いと制動距離を長く取らないとイケなかったりして、ブレーキやタイヤがダメージを受けて、軽い方が曲がりやすいので、「ダウンヒル(峠下り)なら勝機はある」という理屈です。
重い物と軽い物を同時に落下させても、落下速度は同じなんです。
「公道を究める」と言って、涼介も「魅せるドリフト」というのをヤっています。

GT-RのRは王者の称号と聞きました。
evolutionは「進化」という意味で、Rが付いたrevolutionは「革命」という意味なんですけど、そういう意味もあるんですかね。
reでマイナーチェンジ的なニュアンスも感じ取れますが。

コーラのビンを描いたものが芸術作品になったりしていますが、近代以降工業デザイナーという人達が出てきて、クルマも機能性とデザイン性を両立させたものなので、クラシックカーも味わいがありますが、今のは今ので洗練もされてきてカッコいいのもありますよね。
専門的なことはあまり勉強もしてないですが、「シャコタン」というのは、「車高が低い」ということで、低重心だと走行安定性は増すと思います。
メーカーによってデザインのコンセプトも違うようですね、拓海が「トヨタあんまり良いイメージ無いけど」と言ってましたが、「最近のトヨタどうですか?」なんつって、私もフツーのクルマを量産してるイメージだったんですよね、今の社長が「ホントにクルマ好きなのが判る」と言われて、私もクルマ産業そのものへのイメージも変わってきました。

こんなこと言っててもマニュアル免許も取れなかったヤツですけど、一番最初の教習でエンストしまくったのは、他にも不可知的な何かが作用してたんじゃないかと。
私のシフトチェンジおかしかったですか?
東大卒の人が「学科で落ちた」と言っていたのを聞いたこともありますんで…。

作中ラブロマンスもありますが、「『クルマの乗り方や扱い方が女性との付き合い方に出る』って言いますよね」と聞いて、私の場合は「色んな種類の新車を複数台所有」という願望で、あまり自分好みにカスタムもしませんで、一目惚れ(直感)とスペックの両方を重視した好みのクルマを探す感じです(笑)。

主人公が「このクルマを走らせるとみんな喜んでくれるんだよ」とか「クルマって結構イイな」とか言ってましたが、観ていたら私も運転がしたくなりました。
「自分が身に付けた技術にプライドを持て!」とか。

映像の作りも良く感じましたし、バトルシーンもエキサイティングでしたよ。

若い頃ですけど、大学の時の友人が、「友達と深夜にドライブしてたら峠みたいな所に迷いこんで、コーナーの所に観客が立ってたりして、『あ、すいません』みたいな感じになって怖い思いした」と言ってましたが、「分別(ふんべつ)ある大人はサーキットに行きましょう」というのもその通りかも知れませんな(苦笑)。

素人の人達も走り屋の人達も命は大切に!

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天国への階段

昔、美大生が集まって作品を出展するイベントをテレビで見て、遠巻きにチラッと映った淡いピンクのワントーンの花の絵に一目惚れして、「そういう所に足を運んで『掘り出し物』を青田買いするのも一興か」と思ってはいるんですが、今はメルカリで物色だけしています。
実際に安価の作品をいくつか購入もしました。
自分は絵もあまり得意ではありませんが、画商のようなものにも興味があり、一度くらいは覗かせてもらいたく思っています。

最近『真珠の耳飾りの少女』という映画を観まして、フェルメールの同名絵画に物語を付けたものなのですが、あらすじとしては「文盲の美少女がフェルメールの家の使用人になって、彼にインスピレーションを与えてこの作品に行き着く」という話です。

この頃女性にあまり教育を施していないのが推測できましたが、それは貧しさゆえかも知れません。
しかし彼女が高潔で礼儀正しく地頭が良いのが判って、フェルメールがアトリエに入れて色々なことを教えたのだと思ったのですが、その辺りの具体的な描写は為されていないものの、作品の背景が黒であることから、この無垢の少女に光を見たのではないかと感じて、最後少女が「自由」になったのではないかと解釈できるワケです。
少女が青い色を作っているシーンなんかは、青春を想起させて、それに私のウェブサイトのトップページの抽象画のような絵を意識したのかな、と思いましたが?

芸術家もよくよく考えれば頭脳労働的な趣もあるので、中には知性と教養のある人がいても不思議ではないですよね。

芸術というのは、パトロンで成り立っている場合と、多くの観衆に見てもらう場合とがあると思いますが、前近代では聖職者や王侯貴族のための「国家の理念」とか「神秘的かつ神聖なもの」という感じで、近代以降は有産階級(ブルジョワ)の台頭で、その人達の日常から解放して癒しと楽しみを与えるような感じになっていったんでしょうか。

ただ、パトロンやプロデューサーみたいな人が「こういうテーマで作れ」みたいに次々無理難題を言って量産させるようなことをされても、技術のある人はそれなりのは作れるかも知れないですけど、私みたいなのだとすぐダメになると思います。
私がホンモノかという議論にも直結しますが、そういう作り方をしても、技術は高まるようなことがあっても、真の創作意欲から来る傑作が生まれるかと言えば、それはまた別の話ですよね。
でも〆切はあった方がいいですかね(苦笑)。

具体的には芸術の変容だと、華美なバロックや質素なロココなど、時代によって流行のようなものはあったようですが、写実的なものから印象派を経てピカソのキュビズムのような前衛的なものから、抽象画などのモダンアートが生まれていったんですかね。

印象派のゴッホの「ひまわり」は、背景が黄色で、「光を描きたかった」と聞きましたが、先程の映画でもフェルメールが「光の色は?」と聞くシーンもありました。

「楽園」を提唱する芸術家もいたようですが、私も芸術家の感性なんですかね(苦笑)。
評論家か何かの人が「ひょっとしたら自分のために作ったのかも知れないですけど、我々としてはありがたい」と言っていまして、私のアイディアなども本当に実現できないかと妄想を膨らませている所です。

賛否両論ある富豪の前澤友作氏が、「会社が大きくなりかけてる時に、無理して二億円の絵画を買って会社の壁にかけたら、空気が変わってそれ以降仕事も軌道に乗るようになった」と話していて、私もそんなに高額なものは買えないですけど、今安価で手に入れたタペストリーや絵画などを空いた壁などに飾ったりして、「意識を高く持つ」ということをヤってみている所です。
前澤氏も大学生の時まで音楽を自分でやったりレコードを集めたりしていたそうで、挫折はしたみたいなんですけど、「結局成功するのはこういう人なんだな」とも思ってます。

私も自由に使える金があればこういったものに費やしたいんですよね。
私はどちらかというと金は手段だと思っているので、死ぬまで安定的に入ってくれば、安価でも美術品なども資産になり得ますし、金はこういったものに変えたくなってしまうワケなんです。
つまり、自分が「楽しむ」という所にとどまらず、下世話な話にはなりますが、他の人に譲ったりする時に再度金に変わりますし、投資の対象にもなるということです。
消耗品のようなものは、一回使ったり型が古くなったりすると価値がなくなりますが、美術品の類いは、特に傑作だと価値が上がるようなことがあるワケです。

大学の時に友人とランチしながら「『21世紀は芸術とスポーツの時代だ』とか公明党みたいなこと言うんだよね石村さん」と言われて、私も「20世紀は二度の大戦や冷戦があったりして『戦争の世紀』と言われて、19世紀は『帝国主義の世紀』と言われてるよね」みたいなことを言って、もちろん芸術にかまけていればそれで堕落していくようなこともあるかも知れませんが、「真贋を見極める能力、つまり審美眼」を養うのを忘れないようにしたいです。

シューマンの著書を読んだら、「もし私が想像する通りになってたら」と書いていて、さらに「その小さい手で弾いてごらん」とも書いていて、当代では「誰しも」とは言わなくとも、多くの人がアーティストになり得る条件も孕んでますし、他の記事でも書きましたが、こういうものは、「これが高額で世間で評価されてるからこういうのがいいんだ」ではなく、純粋に自分が「良い」と心を動かされたものを大事にすればいいと思います。
まあ「芸術が判ってない」となって、贋作ばかりが出回るようになってもよろしくない傾向ではありますがね。

村上隆氏に代表されるような、「芸術家がマンガを描くとこうなる」的な方法論もありますよね。
自分で言うのもアレですが、私なんかはその類いかも知れませんな、いや、逆かな?(苦笑)
私の作品も実現するか判りませんが、模倣する元が良いので。

日本の「カワイイ」というのは、言葉自体は平安時代の文学の「もののあはれ」の感覚から来ているのではないかと推測してるのですが、「可憐」は字面の意味は「あわれむべし」ですし、太宰治の小説で「小さい座布団の四角(よすみ)に小さいフサフサみたいなのが付いているのを見て、人間のつましさに涙するということがあるわけです」みたいな一節を読みまして、私もそういうものにたまらない愛着を感じることもあります。
海外でもテディベア作ってるオバサンたちもそうなんじゃないでしょうか?
「カワイイ」は下手すると「可愛そう(かわいそう)」になってしまい、しかし武田鉄矢が「小さい『つ』を付けて『アッパレ』って言ったんだよ!」とも言っていました。
とにかく、「可愛い」は字面の意味は「愛すべき」ですか。
いずれにしても「儚さ」みたいなニュアンスを感じ取れますよね。

ニコロ・パガニーニという超絶技巧のバイオリニストが「悪魔のバイオリニスト」と呼ばれていたそうですが、フランツ・リストがピアノで真似をして、当代ではそれがエレキギターになったようなものだと感じましたが?

ちなみに、「パクリ」には「パロディ」と「オマージュ」というのがあって、「全く同じ」だと「剽窃」とか「贋作」とか「盗作」とか言われます。

音楽でもプログレッシブというジャンルはありますが、「前衛的」(アバンギャルド)というのは、悪いニュアンスで使われることもありますので、私も他人の作品を「評論」する時も言葉遣いには気を付けた方がいいかも知れませんな。
芸術の話とかして「お高くとまったヤなヤツになりつつある」というのもその通りかも(苦笑)。

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銀河漂流バイファムを語る

「死ぬなら一人で死ね」とは言うが、許せないのは許せないのでね、せめて差し違え。
ひょっとしたら汚名が半永久的に記録されても「死んだ後の事なんてどうでもいい」と思ってるのかも知れないし、「僕は死ぬのは怖くはない」とは言っても、そういう覚悟でやってるならまだアレかも知れないが、「呆れて物も言えないってゆーか口も聞きたくない」というのが本音。
恐らく俺が正しいんだと思う。
それでも「お前の方が間違ってる」といつものように罵詈雑言を浴びせられた上に抹殺されるならそれまで。
死ぬまで自分に関する事実を知らずに、死んでも気付かないまま知らない内に恥だけかいて死んでいった…という凄惨な歴史的事件。
大学の時にも「『知らぬが仏』と言うからね」とか馬鹿にされた事があって、まあそんなもんでしょう。
東大出身の女性講師に「大学みたいなアカデミックな場所でもいじめはある」と言われて、「批判と中傷は違う」とか思ったりしてましたが。
「ホントは俺以外みんなテレパシーが使えて俺にだけ伝わってこないのかなあ」とか、「世の中を舐めきっているからこういう事になる」とか、まあ私も舐めきられてるのかも知れないですし、反撃の一つくらいでもしてから死ぬ事にしますかね。
そういうのに縁が無い人にも言っておきますが、ハッキリ言ってああいう連中も酷いですよ。
「お前は酷くないのか」とか言われそうですが、機嫌が最悪な時に書き始めたのでこうなります。
どいつもこいつもわざとらしく「自分が一番辛いんだ」みたいなツラしやがって、「俺がどんな思いで生きてきたか」判らないようだな。
「俺がどんな思いで生きてきたか!」というのは後述のシド・ミューラァという敵方の不遇の将校のセリフです。
私は「食うには困らなかった」ですけど、精神的には最悪な時期が長かったのは事実なので。
見返りのような物も全くありませんし。
あまつさえ精神病院の閉鎖病棟(隔離病棟)に入れられて、それもテレパシーが無かった事にされそうになって、今も全くもってストレスでしかない。
「自分の部屋があってスマホも持てて、それだけでもありがたいと思えよ」とか言われそうですがね。
私でも怒る時もありますので。
怒ってる理由は、「金がもらえない」とか「好物が食えない」とか「女と付き合えない」ってのもあるが、一番の理由は「嘘をつかれてる」ことで、そういう非道を重ねておきながら俺に向かって「ふざけるな」とか言い、「ふざけてるのはどっちだ」となるのは当然。
怒ると死ぬまで殴り続けて殺そうとする殺意くらいまでいくので、俺と付き合う人は気を付けてください。
本気で「殺そう」と思ったことは何度かあって、地球を破壊できる爆弾があれば使うかも知れんな。
頭の中が伝わってるってだけで、まあテレパシーの価値なんてそんなもんよ。

そろそろ本題の内容を語りますか。

始めに手っ取り早く言うと、ガンダム系の宇宙戦争モノと『十五少年漂流記』を組み合わせたような感じです。
物語の中心になるキャラクターはいるんですけど、群像劇的な要素が大きく、主人公となる少年少女は13人で、下は4歳から上は15歳です。
思春期の心情を描くのがメインテーマだったとしたら?

クレアド星という地球の植民地がアストロゲーターと呼ばれる異星人の攻撃を受けて、主人公っぽいロディが弟のフレッドと読書好きのペンチという女の子と、軍のスペースシャトルで他の大人の一般人たちとともに宇宙ステーションに避難させられて、そこで、最年長でリーダーとなるスコットとお母さん的な役割を果たす事になるクレア、それからマルロとルチーナのおチビちゃんたち、ミリタリーマニアのタカ派のケンツと、思った事はズバズバ言うシャロン、一人称が「あたい」のブロンドのマキと出会って、同じく植民地のベルウィック星に向かう事になります。
宇宙空間でもアストロゲーターに襲われて大人たちが次々と死んでいって、艦長の「中尉特攻」のシーンもあるんですけど、そのベルウィック星でカチュア(実は異星人)とジミー、クレーク博士と助手のケイトさん、それからジェームス・ディーンのようないでたちのバーツという「これが俺なのかな?」と思わされるキャラクターが加わります。

それで博士とケイトさんも死んでしまって、子供たちが自分たちでジェイナスという「外宇宙練習艦」を操縦しなければならなくなって、最初は地球に戻る予定だったんでしたっけ?
それがククト星に両親が囚われている事が判って、そこに進路を変更する事になります。
ククト星の巨大人工衛星のタウトにロディが単身乗り込んで捕らえられて、そこでアストロゲーターであるククト星人の反乱分子に出会ったりして、彼らは地球との和平を主張していますが、その辺の交流も見どころではありますかね。

先述のシド・ミューラァですけど、ククト人と地球人のハーフで、ククトの軍属のエリートではありますが、その出自のために内部で冷遇されていて、結果彼の忠誠も薄れて最後翻ってククト軍に特攻してしまいます。

メカの種類は少なくて、白のバイファムにはロディが、旧式の赤いネオファムにはバーツが、新型の二人乗りの青いトランファムには主にケンツと砲撃手の女の子が乗っています。

ケンツの成長が著しく、性格が変わったとまでは言えませんが、彼との絡みは面白いです。
声はドラゴンボールの孫悟空の野沢雅子さんです。
クレアの声はサザエさんのカツオの富永みーなさんで、バーツの竹村拓さんもサザエさんに出ています。
カチュアの笠原弘子さんのCDも近くの中古ショップで買いましたが、『本当の私』は結構良かったです。

ここで、『機動戦士ガンダム』のストーリー(というより設定)の解釈を書き残しておきます。

ガンダムは私が生まれた年に、私が生まれる前に始まって、主人公のアムロとララァという少女はニュータイプで、ニュータイプっていうのは主に他の人の心が読める方のテレパシーみたいなのがある、当時の言葉で言えば新人類ってヤツです。
キャスバルとアルテイシアが際立っていて、この兄弟はシャアとセイラとして、それぞれジオンと地球連邦に生き別れになっていますよね。
彼らはスペースコロニー(宇宙植民地という意味で、巨大な人工衛星に大勢の人が居住している)であるジオン共和国の有力者の子供だったキャスバルとアルテイシアは、実権を握ろうとするザビ家に命を狙われていて、実際両親を殺されてそれを察知したキャスバルはシャア・アズナブルとして(実際には入れ替わっていて、入れ替わった本物のシャアは死亡)ジオン軍に入って、それも察知されて殺されるか殺されないかくらいの綱渡りをしながらザビ家に復讐しようとしているんですかね。
「なんかこれが俺だとでも言いたいのかな」とか思ってるんですが(苦笑)。
ギレン・ザビは、「ギレンの野望」とか言われて、ナショナリズムを煽って権力を握ろうとしていて、ザビ家は兄弟みんなタイプが違って、「みんな母親が違うんじゃないの?」とか思いながら、地球連邦と小競り合いとかもあったんですけど、そんな事をしていたら、前にも言いましたけど、ジオン公国として独立したまでは良かったものの、偵察隊みたいな一兵卒のザクが自分の判断で勝手に攻撃してしまって、それがきっかけで本当に開戦してしまったという感じでしょうか。
その小競り合いもシャアがわざと誘発したようなものです。
バイファムの中にも「軍隊は命令が無いと動けんのだ」という軍人のセリフがあって、軍隊は規律の世界なので、兵士も法律みたいなのは知っていなければならないんですかね。
優秀なモビルスーツ製作のミノフスキー博士もいて、彼も連邦に亡命しようとしていたみたいですけど、ナチスドイツからアメリカに亡命して、結果原爆を生み出してしまったアインシュタインを彷彿とさせます。

同じ宇宙ロボットモノでも、実はガンダムよりもバイファムの方が好きで、確かにガンダムの方が先駆的で名作感もありますが、それも私のサガの企画のアレで「テレパシーのヤツの方が評価が高いかも知れないけど、自分では楽園のヤツの方が気に入ってて、頻繁に読み返すのも楽園の方」っていうのに似ていますかね。
最初に凄いのができてしまうと、二番煎じ感とか、後発の作品はより厳しい目で見られる事もあると思いますし、クリエイターの「デビュー作に作家の全てがある理由」というツイートを見て、確かにそんな感じではあるかと。
もっとも、私は自分で作ったキャラクターの堕天使ルシファーが気に入っていて、曲も良いのができたので、深層心理で願望みたいなのが作用していたりして。
まあ具現化できるかもかなり望み薄ですし、一人でやるなら小説くらいですが、それはそれで骨が折れますよね。

とにかく、この手の物でもガンダム以前は「ロボットに乗ってただ悪者をやっつける」みたいな感じだったんですかね、「投書とかも子供からじゃなくて女性とか大学生とかからも来ていた」みたいな事を言ってましたけど、単なる子供向けアニメではない趣もありますよね。

バイファムは放送されていた時間帯がドラえもんの裏で、それが関係あるのか知りませんが、いわゆるゴールデンタイムなのに視聴率が4%とかで打ち切りになりそうになって、番組継続を求める署名運動が起こったとか何とかで、総集編的な2回を挟んで、後半は主題歌が半音上がってテンポも速くなっていて、この主題歌は英詞で、私も大人になってからは半分くらい聞き取れましたが、スペシャルボックスが出た直後に出版された設定集的な本に載っていた歌詞カードを読んでやっと全貌がつかめました。

ちなみに、バイファム本放送時は私は4歳くらいでしたが、中学生の時にテレ玉で再放送されていたのを観て気に入って、大学卒業後に無理を言ってBOXを買いました。
パソコンとキーボードに次ぐ、人生で3番目に高額の品物の買い物でした。

「アメリカがジャイアンで日本がスネ夫で、韓国とか中国ののび太をいじめてるようなもんなんですよ」とは私が思いついてしまったセンテンスなんですけど、テレビで「受け売りしてるだけ」と言って同じ事を言っていた文筆家がいて、私が続けて「金持ちじゃなかったらただいじめてるだけのクズで、いずれジャイアンにも相手されなくなって」と思って、「いじめに加担するヤツってのは、自分が自分を客観的に見てもどういう事になってるのかすら判らないほど知能が劣っているか、それを悪だとも思わないほどの生来の悪人か」っていうのを判りやすく例えただけなんですけど、まあ私がドラえもんなんだとしたら、「好物のどら焼きも食えずにネズミにかじられて妹のドラミも助けに来ないでエネルギー切れを待つ」って感じですか。
のび太は「のび太の立ち回り方」を知った方が賢明かと。
「僕は出木杉くん」とか「私はジャイ子じゃなくてしずかちゃん」だと思ってる「自分はバカだと思ってない」連中もいるかも知れませんがね。
ジャイアンのセリフで今でも覚えているのは、のび太とスネ夫がラジコンか何かで遊んでた時の「どれどれおじさんに貸してみな」ってヤツなんですけど、それでジャイアンはこういう時に大抵全部壊しちゃうんですよね。
この「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物」というジャイアニズムですけど、高校の時に部活の先輩が「ジャイアン、映画だと妙にいいヤツなんだよ」と言ったんですが、「スネ夫、映画だと結構頑張るんですよね」というのも耳にしました。
ドラえもんの登場人物のどれにも当てはまらない場合は何なんでしょうかね。

アメリカとの違いは、日本は豊かな国ではあっても大富豪が少ない事ですかね。
「自称保守には耳の痛い話だと思いますけど、自称保守とか右の連中はね?」ってのに笑ってしまいました。
「正義と正義がぶつかってる」とはたまに聞きますが、相手が悪であるなら正当性もあるかも知れませんし、どうなんですかね。
何度も言うように批判と中傷は違って、ライバル心と敵対心も違うのでは?
最近では批判と中傷の他に「正論」というのがあるみたいですけど。

私はドラえもんは結構好きです。

後世に残るかは判りませんが、いずれにしても地球は無くなるらしいので、私一人でこんな事やってても大した問題ではないかも知れませんね。
呆れて物も言えないし口も聞きたくない。

報復に近いですけど、これも今の心境の吐露であり、「文章を書いている時は別人」みたいな言われ方をしていても、「天才は実は普段汚い言葉を使ってて、罵りの言葉も次々と思いつく」というのを聞いて、今回は腹立って将棋の成績も低迷している時期に書いてます。
で、結局全世界がグルになった詐欺なんでしょ?
「真綿で首を締めるように」というよりは「自らの手を汚さずに」と言った方が適切かも知れませんな。

さて私の記録がのちに今の時代と合わせてどう評価されるんでしょうか。

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モテるオタクを目指してます

カテゴリーは文化ってなってますけど、主にサブカルの話をしようかと思います。

何でもそうでそんなに詳しくはないんですけど、私は結構日本のオタク文化は好きで、漫画もアニメもアイドルもゲームも好きですし、これらのサブカルチャーはクールジャパンの一つにも挙げられてますよね。
なぜサブカルなのかと言うと、これらも先述の通り芸術の中でも微妙な立ち位置というか、より大衆的であり、それぞれ絵画やクラシカルミュージックや囲碁将棋などと比べても子供向けでもあって親しみやすいというか、私は簡単に手に届く良い娯楽なのではないかと思ってます。
かと言ってバカにしているワケでもないですし、オタクを気持ち悪がってバカにするような人もいますけど、オタクでもちゃんとした生活を営んでいる人もいますし、「お前はオタクでもねえじゃねえか、何だと思ってんだ」と厳しいツッコみを頭の中で言ってるんですけど、フツーは普通っていう個性なんでしょうかね。
確かにオタクの中に変な奴が多いのも事実ではありますが(苦笑)。

これらはアキバ(秋葉原)や池袋や中野などが聖地になっているんですか?
私も誘われてコミケや同人イベントに行った事もありますし、アイドルの握手会に行った事もあります。

コミケは同人サークルが主にエッチな漫画を「薄い本」と言って頒布していて、買いに行く方もそれがメインイベントだったりします。
作者の性癖吐露みたいな感じでオリジナルの漫画を描いている人もいるみたいですけど、多くは既成の作品のキャラクターを使って、その作品やキャラクターへの思い入れなどを表現しているワケですが、私は「プロの作品の方が安価なのにアマチュアにファンが付く異様な世界」と言ってます。

漫画というのは基本的に線画で、西洋絵画の写実的な色彩画とはちょっと違います。
「自然に線なんて無い」と言っていた人もいますが、「線画は抽象性が高い」と言った人もいて、実際海外では浮世絵はそれなりに評価されているんでしょうかね。
確かに漫画や浮世絵は線を描いてベタ塗りみたいな所があるので、それでも個性というのは出ますし、漫画はセリフを付けたりして、物語性も持たせているワケです。
「春画」と言って、浮世絵にも性的な表現があったりして、漫画は基本的にそういう世俗的な部分を受け継いでいるのかも知れませんね。

アニメはその絵を動かした物で、ディズニーが起源なんですか?
手塚治虫が真似て日本で独特な文化にしたんでしょうかね。
私は「絵だといくらでも綺麗になるから」と言って、美少女が出てくる作品が好きなんですけど、ジブリみたいなのも観ますし、世界名作劇場みたいなのやセーラームーンとかプリキュアみたいな女の子向けの作品も結構好きで、大人になってからも「怪盗セイントテール」のアニメなどを購入して、癒されてました。
女流作家が描く少女漫画みたいな、女性が見るような作品は悪意が無く、悪役やライバルキャラは欠かせないかも知れないですけど、キャラクターも品があるので、それはそれで良いんですよね。

具体的な話をすると、「怪盗セイントテール」は、主人公が中学生でちょっとおバカだけど運動神経抜群の怪盗で、親友のシスター見習いの女の子に情報をもらって、マジシャンの親譲りのマジックを使って盗まれた物を盗み返して元の持ち主に返したりするんですけど、同級生の優等生の探偵の男に恋して、その探偵の男もセイントテールを追っているワケです。
シスターというのはキリスト教の修道女の事で、仏教の尼さんとか神道の巫女さんみたいな感じですかね。
私はこの設定だけでやられたんですけど、漫画もキャラクターや設定を最初に考えてストーリーを組み立てていく手法なんですかね、れっきとしたエンタメでもありますよね。
子供の頃はもちろん少年ジャンプの「何だか知らないけど常に戦っているような」みたいなので、最後までは読んでないですけど「ドラゴンボール」や「キャプテン翼」や「聖闘士星矢」などにもハマってゲームの作品も楽しんでましたし、「ハーメルンのバイオリン弾き」の「音楽で悪魔の軍団を倒していく」ような作品も好きでしたし、「みゆき」みたいな日常系の作品にもハマってましたよ。
「ドラえもん」も読んだり観たりはしてました。
「機動戦士ガンダム」も観ましたけど、私は「銀河漂流バイファム」が好きで、DVDも買いました。
文学ではピカレスクとかハードボイルドとか言って悪漢小説的なジャンルもあるんですけど(デカダンスと言うのかな?)、子供の頃に英雄譚とかこういう作品に触れておいた方が良いかも知れませんよ、あまり勝手な事は言えませんが。
一概に「判りやすい作品が悪い」とは言えませんが、とにかく、子供を悪人に育て上げたい親はいるんでしょうかね。

アイドルは、これも子供の憧れというか、「これくらいの女の子の憧れは女優とアイドルとモデルです」ってのもそうなのではないかと思っていて、確かにそういう人たちが悪かったら夢を売る側の人間としてはどうかとは思いますよね。
全日本女子プロレスでは「酒、タバコ、男、の三禁」というのがあったんですけど、見ている方も持っているイメージというのはありますし、規律としては判りますよね(笑)。
あと全女では「25歳定年制」というのもあって、女性は男性より早熟な傾向はあるかも知れませんが、その後の人生を考えたりもすると、勉強もできない上に稼げなかった時のリスクも考慮に入れないと、無節操に採用して人生を狂わせてもいけないワケです。
父が日本のプロ野球で「西武みたいな所は引退後も営業みたいなのをやらせればアレだから良いんだよ」と言っていましたが、本当にそういう制度でやっているのかは判りませんし、確かにその後もサポートしてくれるなら、自分が選手だったらそういう球団に行きたいですよね。
メイド喫茶みたいなので、ステージ作って歌わせるような所もあって、友人と行った時に「こういう所で働きたいっていう女の子がいるのも判るよね」と話してたんですけど、言ってみれば看板娘みたいな言葉も昔からありますし、私も「やめたアイドルがどうなるか知らないけど、『俺人脈』とか言って、そういう見た目が良い子たちを集めて金持ち向けに家政婦紹介業者みたいなのをできないかな」と考えてて、「結婚したくなったらそのまま結婚すればいいんだし」と思って、それなら男も頑張って金稼ぐようになるかも知れないだろ、と。
まあファン層の問題がありますがね(苦笑)。

とにかくこういう「kawaii」というのは日本発の文化として誇れるのではないかとも思いますが、どうなんですかね。
なんか「テレパシー誕生以前、テレパシー誕生以後」に分類できるかも知れませんが、それが文化に与えた影響にも言及できそうな気がしますよね、まあうぬぼれた見方はしない方が良いかも知れませんが。
俺なら俺と言っても良いような気もしますが、違うかも知れないからな。
「アイディア料を千円ずつ上納させれば結構な金額になるな」つってるんですけど。
こういう駆け引きがアホらしすぎて、「俺がモデルのキャラクターとどう関わるかというフィクション」という所に留めた方が良い気もしますよね(笑)。
アメコミの絵柄よりもジャパニメーションの絵柄の方が私にはしっくり来るんですが、オタク文化も応援したい所ではありますよ。

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