天国への階段
昔、美大生が集まって作品を出展するイベントをテレビで見て、遠巻きにチラッと映った淡いピンクのワントーンの花の絵に一目惚れして、「そういう所に足を運んで『掘り出し物』を青田買いするのも一興か」と思ってはいるんですが、今はメルカリで物色だけしています。
実際に安価の作品をいくつか購入もしました。
自分は絵もあまり得意ではありませんが、画商のようなものにも興味があり、一度くらいは覗かせてもらいたく思っています。
最近『真珠の耳飾りの少女』という映画を観まして、フェルメールの同名絵画に物語を付けたものなのですが、あらすじとしては「文盲の美少女がフェルメールの家の使用人になって、彼にインスピレーションを与えてこの作品に行き着く」という話です。
この頃女性にあまり教育を施していないのが推測できましたが、それは貧しさゆえかも知れません。
しかし彼女が高潔で礼儀正しく地頭が良いのが判って、フェルメールがアトリエに入れて色々なことを教えたのだと思ったのですが、その辺りの具体的な描写は為されていないものの、作品の背景が黒であることから、この無垢の少女に光を見たのではないかと感じて、最後少女が「自由」になったのではないかと解釈できるワケです。
少女が青い色を作っているシーンなんかは、青春を想起させて、それに私のウェブサイトのトップページの抽象画のような絵を意識したのかな、と思いましたが?
芸術家もよくよく考えれば頭脳労働的な趣もあるので、中には知性と教養のある人がいても不思議ではないですよね。
芸術というのは、パトロンで成り立っている場合と、多くの観衆に見てもらう場合とがあると思いますが、前近代では聖職者や王侯貴族のための「国家の理念」とか「神秘的かつ神聖なもの」という感じで、近代以降は有産階級(ブルジョワ)の台頭で、その人達の日常から解放して癒しと楽しみを与えるような感じになっていったんでしょうか。
ただ、パトロンやプロデューサーみたいな人が「こういうテーマで作れ」みたいに次々無理難題を言って量産させるようなことをされても、技術のある人はそれなりのは作れるかも知れないですけど、私みたいなのだとすぐダメになると思います。
私がホンモノかという議論にも直結しますが、そういう作り方をしても、技術は高まるようなことがあっても、真の創作意欲から来る傑作が生まれるかと言えば、それはまた別の話ですよね。
でも〆切はあった方がいいですかね(苦笑)。
具体的には芸術の変容だと、華美なバロックや質素なロココなど、時代によって流行のようなものはあったようですが、写実的なものから印象派を経てピカソのキュビズムのような前衛的なものから、抽象画などのモダンアートが生まれていったんですかね。
印象派のゴッホの「ひまわり」は、背景が黄色で、「光を描きたかった」と聞きましたが、先程の映画でもフェルメールが「光の色は?」と聞くシーンもありました。
「楽園」を提唱する芸術家もいたようですが、私も芸術家の感性なんですかね(苦笑)。
評論家か何かの人が「ひょっとしたら自分のために作ったのかも知れないですけど、我々としてはありがたい」と言っていまして、私のアイディアなども本当に実現できないかと妄想を膨らませている所です。
賛否両論ある富豪の前澤友作氏が、「会社が大きくなりかけてる時に、無理して二億円の絵画を買って会社の壁にかけたら、空気が変わってそれ以降仕事も軌道に乗るようになった」と話していて、私もそんなに高額なものは買えないですけど、今安価で手に入れたタペストリーや絵画などを空いた壁などに飾ったりして、「意識を高く持つ」ということをヤってみている所です。
前澤氏も大学生の時まで音楽を自分でやったりレコードを集めたりしていたそうで、挫折はしたみたいなんですけど、「結局成功するのはこういう人なんだな」とも思ってます。
私も自由に使える金があればこういったものに費やしたいんですよね。
私はどちらかというと金は手段だと思っているので、死ぬまで安定的に入ってくれば、安価でも美術品なども資産になり得ますし、金はこういったものに変えたくなってしまうワケなんです。
つまり、自分が「楽しむ」という所にとどまらず、下世話な話にはなりますが、他の人に譲ったりする時に再度金に変わりますし、投資の対象にもなるということです。
消耗品のようなものは、一回使ったり型が古くなったりすると価値がなくなりますが、美術品の類いは、特に傑作だと価値が上がるようなことがあるワケです。
大学の時に友人とランチしながら「『21世紀は芸術とスポーツの時代だ』とか公明党みたいなこと言うんだよね石村さん」と言われて、私も「20世紀は二度の大戦や冷戦があったりして『戦争の世紀』と言われて、19世紀は『帝国主義の世紀』と言われてるよね」みたいなことを言って、もちろん芸術にかまけていればそれで堕落していくようなこともあるかも知れませんが、「真贋を見極める能力、つまり審美眼」を養うのを忘れないようにしたいです。
シューマンの著書を読んだら、「もし私が想像する通りになってたら」と書いていて、さらに「その小さい手で弾いてごらん」とも書いていて、当代では「誰しも」とは言わなくとも、多くの人がアーティストになり得る条件も孕んでますし、他の記事でも書きましたが、こういうものは、「これが高額で世間で評価されてるからこういうのがいいんだ」ではなく、純粋に自分が「良い」と心を動かされたものを大事にすればいいと思います。
まあ「芸術が判ってない」となって、贋作ばかりが出回るようになってもよろしくない傾向ではありますがね。
村上隆氏に代表されるような、「芸術家がマンガを描くとこうなる」的な方法論もありますよね。
自分で言うのもアレですが、私なんかはその類いかも知れませんな、いや、逆かな?(苦笑)
私の作品も実現するか判りませんが、模倣する元が良いので。
日本の「カワイイ」というのは、言葉自体は平安時代の文学の「もののあはれ」の感覚から来ているのではないかと推測してるのですが、「可憐」は字面の意味は「あわれむべし」ですし、太宰治の小説で「小さい座布団の四角(よすみ)に小さいフサフサみたいなのが付いているのを見て、人間のつましさに涙するということがあるわけです」みたいな一節を読みまして、私もそういうものにたまらない愛着を感じることもあります。
海外でもテディベア作ってるオバサンたちもそうなんじゃないでしょうか?
「カワイイ」は下手すると「可愛そう(かわいそう)」になってしまい、しかし武田鉄矢が「小さい『つ』を付けて『アッパレ』って言ったんだよ!」とも言っていました。
とにかく、「可愛い」は字面の意味は「愛すべき」ですか。
いずれにしても「儚さ」みたいなニュアンスを感じ取れますよね。
ニコロ・パガニーニという超絶技巧のバイオリニストが「悪魔のバイオリニスト」と呼ばれていたそうですが、フランツ・リストがピアノで真似をして、当代ではそれがエレキギターになったようなものだと感じましたが?
ちなみに、「パクリ」には「パロディ」と「オマージュ」というのがあって、「全く同じ」だと「剽窃」とか「贋作」とか「盗作」とか言われます。
音楽でもプログレッシブというジャンルはありますが、「前衛的」(アバンギャルド)というのは、悪いニュアンスで使われることもありますので、私も他人の作品を「評論」する時も言葉遣いには気を付けた方がいいかも知れませんな。
芸術の話とかして「お高くとまったヤなヤツになりつつある」というのもその通りかも(苦笑)。
実際に安価の作品をいくつか購入もしました。
自分は絵もあまり得意ではありませんが、画商のようなものにも興味があり、一度くらいは覗かせてもらいたく思っています。
最近『真珠の耳飾りの少女』という映画を観まして、フェルメールの同名絵画に物語を付けたものなのですが、あらすじとしては「文盲の美少女がフェルメールの家の使用人になって、彼にインスピレーションを与えてこの作品に行き着く」という話です。
この頃女性にあまり教育を施していないのが推測できましたが、それは貧しさゆえかも知れません。
しかし彼女が高潔で礼儀正しく地頭が良いのが判って、フェルメールがアトリエに入れて色々なことを教えたのだと思ったのですが、その辺りの具体的な描写は為されていないものの、作品の背景が黒であることから、この無垢の少女に光を見たのではないかと感じて、最後少女が「自由」になったのではないかと解釈できるワケです。
少女が青い色を作っているシーンなんかは、青春を想起させて、それに私のウェブサイトのトップページの抽象画のような絵を意識したのかな、と思いましたが?
芸術家もよくよく考えれば頭脳労働的な趣もあるので、中には知性と教養のある人がいても不思議ではないですよね。
芸術というのは、パトロンで成り立っている場合と、多くの観衆に見てもらう場合とがあると思いますが、前近代では聖職者や王侯貴族のための「国家の理念」とか「神秘的かつ神聖なもの」という感じで、近代以降は有産階級(ブルジョワ)の台頭で、その人達の日常から解放して癒しと楽しみを与えるような感じになっていったんでしょうか。
ただ、パトロンやプロデューサーみたいな人が「こういうテーマで作れ」みたいに次々無理難題を言って量産させるようなことをされても、技術のある人はそれなりのは作れるかも知れないですけど、私みたいなのだとすぐダメになると思います。
私がホンモノかという議論にも直結しますが、そういう作り方をしても、技術は高まるようなことがあっても、真の創作意欲から来る傑作が生まれるかと言えば、それはまた別の話ですよね。
でも〆切はあった方がいいですかね(苦笑)。
具体的には芸術の変容だと、華美なバロックや質素なロココなど、時代によって流行のようなものはあったようですが、写実的なものから印象派を経てピカソのキュビズムのような前衛的なものから、抽象画などのモダンアートが生まれていったんですかね。
印象派のゴッホの「ひまわり」は、背景が黄色で、「光を描きたかった」と聞きましたが、先程の映画でもフェルメールが「光の色は?」と聞くシーンもありました。
「楽園」を提唱する芸術家もいたようですが、私も芸術家の感性なんですかね(苦笑)。
評論家か何かの人が「ひょっとしたら自分のために作ったのかも知れないですけど、我々としてはありがたい」と言っていまして、私のアイディアなども本当に実現できないかと妄想を膨らませている所です。
賛否両論ある富豪の前澤友作氏が、「会社が大きくなりかけてる時に、無理して二億円の絵画を買って会社の壁にかけたら、空気が変わってそれ以降仕事も軌道に乗るようになった」と話していて、私もそんなに高額なものは買えないですけど、今安価で手に入れたタペストリーや絵画などを空いた壁などに飾ったりして、「意識を高く持つ」ということをヤってみている所です。
前澤氏も大学生の時まで音楽を自分でやったりレコードを集めたりしていたそうで、挫折はしたみたいなんですけど、「結局成功するのはこういう人なんだな」とも思ってます。
私も自由に使える金があればこういったものに費やしたいんですよね。
私はどちらかというと金は手段だと思っているので、死ぬまで安定的に入ってくれば、安価でも美術品なども資産になり得ますし、金はこういったものに変えたくなってしまうワケなんです。
つまり、自分が「楽しむ」という所にとどまらず、下世話な話にはなりますが、他の人に譲ったりする時に再度金に変わりますし、投資の対象にもなるということです。
消耗品のようなものは、一回使ったり型が古くなったりすると価値がなくなりますが、美術品の類いは、特に傑作だと価値が上がるようなことがあるワケです。
大学の時に友人とランチしながら「『21世紀は芸術とスポーツの時代だ』とか公明党みたいなこと言うんだよね石村さん」と言われて、私も「20世紀は二度の大戦や冷戦があったりして『戦争の世紀』と言われて、19世紀は『帝国主義の世紀』と言われてるよね」みたいなことを言って、もちろん芸術にかまけていればそれで堕落していくようなこともあるかも知れませんが、「真贋を見極める能力、つまり審美眼」を養うのを忘れないようにしたいです。
シューマンの著書を読んだら、「もし私が想像する通りになってたら」と書いていて、さらに「その小さい手で弾いてごらん」とも書いていて、当代では「誰しも」とは言わなくとも、多くの人がアーティストになり得る条件も孕んでますし、他の記事でも書きましたが、こういうものは、「これが高額で世間で評価されてるからこういうのがいいんだ」ではなく、純粋に自分が「良い」と心を動かされたものを大事にすればいいと思います。
まあ「芸術が判ってない」となって、贋作ばかりが出回るようになってもよろしくない傾向ではありますがね。
村上隆氏に代表されるような、「芸術家がマンガを描くとこうなる」的な方法論もありますよね。
自分で言うのもアレですが、私なんかはその類いかも知れませんな、いや、逆かな?(苦笑)
私の作品も実現するか判りませんが、模倣する元が良いので。
日本の「カワイイ」というのは、言葉自体は平安時代の文学の「もののあはれ」の感覚から来ているのではないかと推測してるのですが、「可憐」は字面の意味は「あわれむべし」ですし、太宰治の小説で「小さい座布団の四角(よすみ)に小さいフサフサみたいなのが付いているのを見て、人間のつましさに涙するということがあるわけです」みたいな一節を読みまして、私もそういうものにたまらない愛着を感じることもあります。
海外でもテディベア作ってるオバサンたちもそうなんじゃないでしょうか?
「カワイイ」は下手すると「可愛そう(かわいそう)」になってしまい、しかし武田鉄矢が「小さい『つ』を付けて『アッパレ』って言ったんだよ!」とも言っていました。
とにかく、「可愛い」は字面の意味は「愛すべき」ですか。
いずれにしても「儚さ」みたいなニュアンスを感じ取れますよね。
ニコロ・パガニーニという超絶技巧のバイオリニストが「悪魔のバイオリニスト」と呼ばれていたそうですが、フランツ・リストがピアノで真似をして、当代ではそれがエレキギターになったようなものだと感じましたが?
ちなみに、「パクリ」には「パロディ」と「オマージュ」というのがあって、「全く同じ」だと「剽窃」とか「贋作」とか「盗作」とか言われます。
音楽でもプログレッシブというジャンルはありますが、「前衛的」(アバンギャルド)というのは、悪いニュアンスで使われることもありますので、私も他人の作品を「評論」する時も言葉遣いには気を付けた方がいいかも知れませんな。
芸術の話とかして「お高くとまったヤなヤツになりつつある」というのもその通りかも(苦笑)。