将棋は野球、囲碁はサッカー
昔ネットでタイトルのこの言葉を見かけたんですけど、「なるほど」と思いました。
日本に住んでると、こういう対になって「どっち派?」なんて思うこともあると思います。
ゲームなら、将棋と囲碁。
スポーツなら、野球とサッカー。
アートなら、音楽と絵。
私は以上のことなら前者が得意なんです。
サッカーはオフサイドさえ覚えればヘタクソ同士でも試合にはなるんですが、野球というのは、ルールで覚えることが多かったり、四番のボーカルがヘナチョコであるか以前の話で、ピッチャーがストライクゾーンに投げられないと試合にならないんですよね。
「少年野球はノーアウト二塁から始まる」という言葉があるそうで、これは、「先頭打者がフォアボールで、盗塁成功してそこから始まる」という意味だそうです。
前者は男性が、後者は女性が好む感じだと思っていますが、それでも、女子ソフトボール選手の球をプロ野球選手が打てないなんてこともありますのでね。
格闘技なら「レスリング系とフルコンタクト系」なんて分け方もありますが、他にも、「将棋は戦術、囲碁は戦略」なんて言われたりします。
歴史学者さんの本を読んだら、「戦術の工学、戦略の政治学、兵站の経済学」と書いてありましたが、戦術というのはミクロな局地戦のことで、戦略というのはマクロな外交などで、兵站(へいたん)というのは、判りやすく言えば「兵隊さんをいかに食わせるか」ということです。
日本でこの問題を真剣に考えたのは織田信長以降だということですが、侵略するのは簡単でも、略奪してしまえばその後の統治は困難になります。
あと、対になるものなら「朝廷と幕府」というのもありますね。
これも「権力というのは人事権」と読んで、「日本国ってのは、結局征夷大将軍の任命権を持っている天皇なんだ」という皇国史観というのがあるそうで、戦後その保守系の歴史学者がパージされていくと、今度は唯物史観的な左派的な歴史観が台頭してきますが、厳密には公家と武家の他に寺家というのもあるそうで、それでも日本の宗教の根幹は多神教であることは以前にも書きました。
弁天様とか大黒様とかえべっさんとかの七福神が判りやすいですが、これだけでも神様が七人いて、外から神や仏が入ってきても、神の一つとして取り込んで、現地化していくワケです。
ただ、ルソーが「何もない」と言っているのは、日本の宗教は、他力本願やご利益で信仰しているからだと思いますが、つまり、「神に感謝」とか「今日メシが食えることに感謝」とかではないということでしょうか?
批判しているのは他にも意味があるかもしれませんが、主体性が削がれていくワケですな。
言い返すワケではありませんが、一神教は一神教で「イエスかノーか」となって排他的になる側面もあるかと思います。
『社会契約論』は、多分、一神教(キリスト教)的な「神の前の平等」という考え方で、「王が一人いて、あとは皆平等」ってことなんだと思いますよ。
ですので、私も「どちらが上か」とかではなく、得手不得手はありますが、多様な物の見方をするように心がけています。
その歴史学者さんは「源頼朝が偉いのは、彼らの言うことを聞き入れたこと」と書いていましたが、私も今後どうするべきか、思案のしどころですよね。
昔「しょうゆ顔とソース顔」なんて言ってたんですが、最近では「塩顔」というのもあるそうで、私は「野球顔とサッカー顔」と言ってるんですが、流行りませんよね…。
日本に住んでると、こういう対になって「どっち派?」なんて思うこともあると思います。
ゲームなら、将棋と囲碁。
スポーツなら、野球とサッカー。
アートなら、音楽と絵。
私は以上のことなら前者が得意なんです。
サッカーはオフサイドさえ覚えればヘタクソ同士でも試合にはなるんですが、野球というのは、ルールで覚えることが多かったり、四番のボーカルがヘナチョコであるか以前の話で、ピッチャーがストライクゾーンに投げられないと試合にならないんですよね。
「少年野球はノーアウト二塁から始まる」という言葉があるそうで、これは、「先頭打者がフォアボールで、盗塁成功してそこから始まる」という意味だそうです。
前者は男性が、後者は女性が好む感じだと思っていますが、それでも、女子ソフトボール選手の球をプロ野球選手が打てないなんてこともありますのでね。
格闘技なら「レスリング系とフルコンタクト系」なんて分け方もありますが、他にも、「将棋は戦術、囲碁は戦略」なんて言われたりします。
歴史学者さんの本を読んだら、「戦術の工学、戦略の政治学、兵站の経済学」と書いてありましたが、戦術というのはミクロな局地戦のことで、戦略というのはマクロな外交などで、兵站(へいたん)というのは、判りやすく言えば「兵隊さんをいかに食わせるか」ということです。
日本でこの問題を真剣に考えたのは織田信長以降だということですが、侵略するのは簡単でも、略奪してしまえばその後の統治は困難になります。
あと、対になるものなら「朝廷と幕府」というのもありますね。
これも「権力というのは人事権」と読んで、「日本国ってのは、結局征夷大将軍の任命権を持っている天皇なんだ」という皇国史観というのがあるそうで、戦後その保守系の歴史学者がパージされていくと、今度は唯物史観的な左派的な歴史観が台頭してきますが、厳密には公家と武家の他に寺家というのもあるそうで、それでも日本の宗教の根幹は多神教であることは以前にも書きました。
弁天様とか大黒様とかえべっさんとかの七福神が判りやすいですが、これだけでも神様が七人いて、外から神や仏が入ってきても、神の一つとして取り込んで、現地化していくワケです。
ただ、ルソーが「何もない」と言っているのは、日本の宗教は、他力本願やご利益で信仰しているからだと思いますが、つまり、「神に感謝」とか「今日メシが食えることに感謝」とかではないということでしょうか?
批判しているのは他にも意味があるかもしれませんが、主体性が削がれていくワケですな。
言い返すワケではありませんが、一神教は一神教で「イエスかノーか」となって排他的になる側面もあるかと思います。
『社会契約論』は、多分、一神教(キリスト教)的な「神の前の平等」という考え方で、「王が一人いて、あとは皆平等」ってことなんだと思いますよ。
ですので、私も「どちらが上か」とかではなく、得手不得手はありますが、多様な物の見方をするように心がけています。
その歴史学者さんは「源頼朝が偉いのは、彼らの言うことを聞き入れたこと」と書いていましたが、私も今後どうするべきか、思案のしどころですよね。
昔「しょうゆ顔とソース顔」なんて言ってたんですが、最近では「塩顔」というのもあるそうで、私は「野球顔とサッカー顔」と言ってるんですが、流行りませんよね…。