Romancing Note

あと何回桜見られるか。

表現者たるもの─そこに愛はあるんか?

ガンダムシリーズで有名な富野監督の言葉で、「面白いマンガって絵が下手でしょう、絵の勉強ばっかりしてるヤツは、他の勉強をしてないってことです」みたいなのがありましたが、それについて少し書こうと思いました。

芸術に限らず、理解して解説しただけでは「教師」にしかならないですよね。

「それ」を作品に落とし込むから「表現者(文化人)」たりえるのであって、作品における人間性とか個性というのは、そういうことなんだと思います。

つまり、芸術というのは…

理解できる(共感できる)→解説できる→表現できる

という順番で成長していくのではないでしょうか。

しかし、何も無いのに表現しようとしたモノがあったとすればそれは、いくら技術が優れていても、「薄っぺらい」とか「空っぽ」とか言われても仕方無い感じにもなるワケです。

「子供の情景」というか、子供が描いたような悪意の無い絵や音楽も良いんですが、以前にも言った「表象」の部分で、多分、芸術家というのは「世界の見え方」が違ったりすることもあるかもしれません。

ヘーゲルが「科学の発達した時代においては、もはや人々は芸術に心奪われることは無い」というような言葉を残しているようですね。

「常識」が「科学」であるとすれば、「芸術」というのは「宗教的なるモノ」という解釈も成り立ちます。

ニーチェは、ヘーゲルに師事してショーペンハウアーに影響を受けたんですかね、ニーチェは、文章が小難しいヘーゲルに反発してそれをこう言ったんですか、つまり、「ツァラトゥストラはこう言った…『神は死んだ』と」ということでしょうか?

今の時代は、スマホやパソコンも廉価で買えるようになって、皆がSNSでお互い「死ね」とか言い合っていたら、まったく「生」即ち「産み出す」という行為からは真逆の言動を積み重ねるような愚かなことになってしまい、そこは、テクノロジーを使いこなすべき人間としては注意していかなければならない点ではありますよね。

もちろん人間には好き嫌いはありますし、喜怒哀楽の感情もあれば、技術的に優劣が付く場合もあります。
またしても説教臭い話ではありますが、この辺りをもう一度考え直し、「創作活動とは何か」を考えたいところです。

「芸術を神聖視しすぎている」という言葉も見ましたが、受け取る側の心構えとしても、芸術鑑賞の一助になるのではないかと。

それにしても、私は曲は書けても歌詞が書けないんですが、「ルソーの小説の形式が最も良い形式である」とも読みましたし、私のこの現象は一体にゃんなんでしょうかね…。

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